『猫の夢』

   

 キーを打つ手を止めると、大きく息を吐き肩を回す。
 モニターから視線を外し窓の外を覗くと、いつの間にやら空は茜色に変わっていた。
「そろそろ飯にするか」
 私は席を立つと、自室の扉を開ける。
 すると、かすかな手応えと共にふぎゃっ! という鳴き声。
「なんだ、お前……そんな所にいたのか」
 にゃあにゃあと鳴き声をあげながら、その猫――シロは足にまとわりついてくる。

「何をいっているか分からんなぁ…… ごはんか? おっと、待て待て。今行くから」

 しびれを切らし足に飛びついてきたシロを押しのけながらリビングに出る。
 私の歩く速度に合わせ、チリンチリンと小気味良い音を響かせ着いてくるシロ。
 キッチンに立つと、シロは空になったえさ箱に顔を近づけ、何も無い事をアピールするかのように視線を投げてくる。
「まったく、お前は気楽でいい。お前が食べるこのエサもタダでは無いのだぞ?」
 開封したエサを顔の前で振ってやると、シロの顔がそれを追うように左右に揺れる。同時にピコピコ動く尻尾が妙に愛らしい。
「ほれ」
 えさ箱の前を占領するシロの顔をそっと避けてやると、エサを流し込む。
 シロはまだエサを入れている最中の私の手を押しのけ、貪るようにそれを食べ始めた。
 普段は気にしていないが、シロがそれを噛みきる時のポリポリッという音が小気味良い。
「そんなに美味しいのか?」
 私の声がけを無視して、シロは一心不乱にそれを食べ続ける。
「ふむ……」
 私は袋に残ったシロのエサのうち、1つを手に取るとそれを口に放り込む。
 味わうようにして、奥歯でそれを噛むと、妙な塩味の強さと、今まで食べたことのないような風味が口の中いっぱいに広がる。
「……うえっ。これは……食えたものではないな」
 いくら腹が減っていたとはいえ、気の迷いにもほどがあった。
 猫が食べているものだ、人間が食べられぬ事はあるまいが……。勝手に自分のエサを食われた上、それをまずそうに吐き出しては流石にシロに悪かろう。
 私は口の中でもてあましていたそれをどうしようか迷った末、コップ一杯の水と一緒に無理矢理流し込む。何とも言えない後味が口の中に残るが、それは我慢する事にする。
 ふとシロのほうを見ると、私がそうこうしている間に自分の食事を追えたのか、ゆっくりと肉球を舐めては顔を洗っていた。
「ふむ。それでは私も自分の食事を作るとしよう」
 キッチンに向かうと、冷蔵庫を開ける。
 最後に買い物をしたのはいつになるか……ほぼ空っぽの冷蔵庫を前に愕然とする。
 えーとなにか、何か残って無かったか?
 冷蔵庫の中を諦め、キッチンの戸棚を開けていく。カップラーメン……はとっくに食べた。ちょこフレーク……はこれ、開けたのいつだ?
 意を決して臭いを嗅いでみると、意外と……いけ……私は手を受け皿にして出しかけたフレークをそっとゴミ箱に捨てた。
 流石に開封してずっと放置しておいたものは食べられんな。
「他に何か……お! あった。っ! あいたっ!」
 それを手に勢いよく立ち上がろうとすると、戸棚の角に頭を打ち付ける。痛む頭をさすりつつ、今し方見つけたそれのパッケージに目をやる。
 贅沢野菜ラーメン、札幌風。ちなみに、野菜は別売りだ。賞味期限は……うぅむ。三ヶ月前か。
 私はそっと袋を開封してみるが、特に見た目に変化は見られない。また、臭いも確かめてみたものの、問題なさそうだ。
「まぁ、インスタントラーメンなどというものの賞味期限はあって無いようなものだろう」
 そう結論づけると手頃な鍋に水を張り火をかける。
 先ほどから妙に大人しいシロに目をやると、ソファの上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「ほんとうに、羨ましい奴め……」
 なにかその寝顔が幸せそうで、妙に悔しくなって、耳の辺りをいじってみる。
 シロは迷惑そうにクククと小さく鳴き、耳を何度か動かす。両手で顔を隠すと、改めて熟睡の体勢に入った。
「ふっふっふっ、それで隠れたつもりか……おっと」
 追撃をしようとした所で鍋を火にかけていたのを思い出す。
 火にかけた鍋は既に沸騰しており、心なしか水かさも減っているように見える。水を足そうかとも思ったが、それで温度が下がるのも癪だ。
 そのまま、袋麺のなかから麺を取り出し、鍋に放り込む。
「あっ、しまった」
 袋のなかに残っている小さな欠片を放り込もうとして気付いた。
 カヤクの袋が見当たらない。
「これは……おそらく……」
 菜箸で、まだ固い麺の塊をひっくり返してみると……思った通りだ。袋がそのまま張り付いていた。
 私は菜箸を慎重に使ってその袋を取り出す。意外とこういった薄っぺらなものは箸では掴みにくいものだ。
 鍋からカヤクの袋を取り出すと、ぎざぎざになっている部分から袋を開け麺に振りかける。
 本当は野菜が欲しいところではあるが、無いものは仕方ない。明日にでも買い出しに出るとしよう。
 程なくして出来上がったラーメンを食べると、書斎兼寝室である自室に戻る事にする。ちなみに、味は可もなく不可もなく、ただの袋麺の味だった。
 いつの間にやら後をついてきていたシロが一緒に寝たいというので部屋に入れる。
 布団に潜り込んだ後、電気を消して就寝しようとする私にシロが近づいてくる。
 私の顔のあたりをふんふんとかぎまわった後、顔の上に座り込もうとするシロを掴みあげ、私の隣に置く。
 やがて観念したシロは、私の身体に背中を預け、眠りに就いた。
「ほんと……お前は自由でいいな」
 ぼやけた頭でそんなシロを見守り、浅く笑うと、私も意識を手放した。
 
 
 
 翌朝、目覚めた私はなにやら違和感を覚えた。
 天井が……高い? そう、いつもより天井が高いのだ。
 ぼやけた頭であたりを見回す。どうにも、遠近感のせいかいつもより家具も大きいような気がする。そのまま起き上がろうとする私の耳に届く、チリンという音。
 あぁ、シロか。そう思い振り返ると、私はとんでもない事実に気がつく。

――――私が、いる。

 そう、そこには私が寝ていた。それも、とても幸せそうな顔で、だらしなく口を開けよだれまで垂らしている。
 思ったより私は寝相が悪いらしい……などと暢気な事を考える頭を振って、覚醒を試みる。
 すると、先ほどよりも大きく鳴るチリンという音。どうにも、音の発生源が近い。
 私は音のするほうを確認しようとするが、そこに鈴はない。そこにあるのは、ただ白い毛並み……。
「んなっ!?」
 驚いて声を上げた。……あげたつもりだった。しかしそれは私の口から発せられるハズの音ではなく、んに゛ゃっ!? というなんとも間の抜けた猫の声だった。
 状況を整理しようと先ほど見えたものの正体をおそるおそる確かめる。私が首を動かすたびにチリン、チリンとなる鈴の音がなにやら鬱陶しい。
「見間違い……じゃないのか」
 そう呟いたつもりだったが、やはり私の口からは、にゃにゃーんという音しか漏れず、私は改めて自分の置かれた状況を理解する。つまり……。
「猫……というよりシロ……なのか? この身体は」
 そうなのだ、つまりはそういう事だ。どういうわけか分からないが、今、私はシロになっている。
 そこまで考えた所で、私は苦笑する。たしかに私は夢想するのが仕事の小説家ではあるが、こんなにも子供じみた夢を見るとは。最近仕事が押していたから、少し無理をしすぎたかもしれない。そう考えた所で、私は一旦考えを打ち切る。
 ……さて、そうと分かれば面白い。作家として、夢を夢として理解した状態で過ごせるのであれば、こんなに面白い事はないだろう。恐らく、私の身体がこうして眠り続けているのも夢である証拠だ。
 私は、ベッドをピョンと飛び降り、部屋を歩いてみる。
「うむ。猫の身体もなかなか悪くない」
 目線が違うというのは、こうも世界の色を変えて見せるものなのだろうか。シロの目の高さから見る景色は、いつもと違って見えてなかなか新鮮だ。それに、シロが若い猫であるためか、身体が軽い。
 現実の私はもう、肉体的にはだいぶ衰えてきているため、歩くたびにやってくる間接の痛みや、慢性的な肩こりなど、そういったものから解放されたのは実に久しぶりである。
 私は部屋を出ようとして、はたと気付く。
 ……しまった。ドアが開けられない。
 昨夜は眠くて何も考えずに扉を閉め切ってしまった。普段はシロが出て行けるよう軽く開けておくというのに……だ。
「さて……どうしたものか」
 この扉のドアノブは、いわゆる取っ手が丸いタイプではなく、取っ手が棒のようになっていてそれを下に引き下ろす事で扉を開けるタイプだ。
 もしかしたら、この身体の跳躍力であれば開ける事が出来るかもしないな。
 そう思い、私はドアノブの真下へと移動すると、なるべく身体に力を溜めピョンと飛び上がってみる。ぐんと加速を付けて飛び上がる私の身体。みるみるうちにドアノブは近づいてきて、やがて静止し、私の身体は重力に負け落ちていった。
「おお……意外と飛べるものだな」
 猫の身体ゆえか、着地も綺麗に決まる。私は再び下半身に力を溜め、次こそはと気合いを入れる。どうにもおしりがむずむずして、腰が左右に揺れてしまう。
 溜めた力を一気に解放し、再び私の身体は空に飛び上がった。
「お……お! おっ! このっ!」
 最も高く飛び上がったと思われる所で、私はドアノブに手を伸ばす。力を入れたためか、少々爪の伸びた手がドアノブに振れ、カツリと音が鳴る……がドアを開けるには至らず、そのまま重力に従い落ちていく。
「うむ。いけるな。もう一度だ」
 そうして再び私は飛び上がる。今度は先ほどより高く飛べ、私は再びドアノブへと手を振り下ろす。
 強く叩きすぎたか、盛大に音を立てるドアノブ……が、しかしドアはうまく開いてくれない。
「うぅむ……」
 やはり、ドアノブを叩くだけではなく、ドアを押す力が必要なのだろうか……。そこまでの器用な真似がこの身体に出来るか。
 そこまで考えていた所で、はっと背後の物音に気付く。

 何かが……いる!?

 私は咄嗟に背後を振り向くと、巨大な生き物が今まさに起き上がろうとしている所だった。
「お? おぉぉぉぉ!?」
 私は驚きのあまり飛び退ると、扉を背にして身を固くする。
 巨大なそいつ――私の身体は、ベッドから起き上がろうとしてドテッっと盛大な音をたてて転んだ。
「っ……ててっ……? あれ? おかしい。身体が重いにゃ」
 私の身体は上体を起こすと、私そっくりの声でそんな事を言う。
「んなっ!? なっ、なっ。何者だっ!」
 そもそも、私の夢なのだから、私の思い通りにならなければおかしい……はず。何故だ。何故、私の身体が勝手に動き出したのだ。
「ん? あれ? あれぇ? なんで、シロがそこにいるにゃ?」
 その巨大な顔を近づけ、のぞき込むようにしてその身体は言う。
 自分の顔とはいえ、巨大な顔が眼前まで迫ってくるのは純粋に恐い。
「お、おまっ! お前は誰だ!」
 尻尾を立てて、精一杯威嚇する。そいつの動き次第では、いつでも逃げ出せるように、体勢は少し引き気味にだ。
「んん? 誰って、シロはシロにゃ。お前こそ誰だにゃ。それはシロの身体だにゃ」
 言われてはっと気付く。
 なんと、この夢は単純な私のシロの身体への乗り移りだけではなく、私とシロの身体の入れ替わりだったのか。
「お前は……シロか? 私だ私。お前の主人である竜之介だ」
「ご主人様……にゃ? にゃにゃ!? シロ。おっきくなってるにゃ!?」
 シロはそこでようやく気付いたかのように自分の身体を見回し、混乱して体中をあちこちを触り回る。
 このシロの驚きよう……夢にしてはなんともリアルなものだ。
「シロよ。どうやら我々は身体が入れ替わってしまっているようだ。不便ではあるが、そういう夢なのだろう。とりあえず、この扉を開けてくれんか?」
 そうシロに促すと、シロは「夢? これ夢にゃ? にゃにゃ?」と首をかしげながらも四つん這いのまま勢いよく近づいてくる。
「おわっ!? 気をつけて歩け!」
 勢いよく振り上げられたシロの前足……もとい手を避けつつ抗議する。
 シロはそれが聞こえているのかいないのか、ドアの前に来ると力いっぱい押し開けようとする。
「んっ-! ……んんんっー!! はぁ……はぁ……開かないにゃ」
「待て待て! 違う違う違う! そうじゃない! そこの棒みたいなのがあるだろう! 違う! その横の……それだ! それを引け!」
 ドアノブを引くように指示を出すと、シロは器用に手を使いそれを引っ張る……が、当然開かない。
「違う! それはそのまま引いて、ドアを押すんだ! そう、そうだ!」
 しばらく苦戦していたシロだったが、やがて要領を掴んだようで扉を開ける事ができた。
「そうだ。それでいい……ところで」
 扉が開くと、四つん這いのまま歩きだそうとするシロの前に立ちふさがる。
「服が汚れるだろう。立って歩け! 立って!」
 シロの前で、立ち上がって見せようとするが、猫の身体ではどうも上手く立つ事ができない。
 すっと立ち上がる事ができても、どうしても前のめりにバランスを崩してしまう。
「立つ・・…ってこうにゃ? おおっ!?」
 シロは、私のマネをして立ち上がってみると、案外すんなり立ち上がる事ができる。
「おおおお! 高いにゃ! 恐いにゃ!」
 そういえば、シロは猫のくせに高いところが苦手だった。
 しばらくそうして、立ち上がってみては、恐くて腰を下ろす事を繰り返していたシロだったが、やがて慣れたのか、立ち上がったままなにかに捕まり歩くことができるようになった。
「よし、とりあえず、そこのソファに座れ。そこで話をしよう」
 そう促すと、シロはゆっくりとした足取りでソファに近づいていきソファへ倒れ込んだ。
「んにゃ~……疲れたにゃ……」
 なんというか、酒に酔ったサラリーマンが駅で力尽きているような光景だ。
「シロ。とりあえず状況を整理しよう。シロ? おい、シロ!」
 シロが横になったまま返事をしないため、ピョンとシロの身体に飛び乗り、身体を叩く。
「んん~。重いにゃ」
 昨夜は人の顔の上に乗ってきたくせによく言う……。
 私はそんなシロの顔を、爪を出さないように気をつけつつペチペチと叩くと、やがてシロはめんどくさそうに上体を起こす。
「疲れたにゃー」
 愚図るシロをあやしつつ、私は今の状況を口にしていく。
「まず、今、私達はどうやら身体が入れ替わってしまっているらしい。そして恐らくこれは夢だ……あいや、夢じゃなきゃおかしい。だから、夢から覚める必要がある……のか? いや、自然に冷めるだろう……が、うむ」
 自分で話しておきながら、何をするべきか考える。と、とくに私には不都合が無いように思えてきた。むしろ、夢なのだから目一杯楽しめば良い。そうだ。先ほどはそのように結論づけたはずだ。よし、楽しもう。
 ……そう自問自答していると、やがてシロが口を開く。
「お、おなかすいたにゃー……」
 言われて時計を見上げると、たしかに、時計の針は10時20分ぐらいを指していた。……いや、夢に時間が関係あるのかは知らんが。
 私自身も空腹を意識したとたん、お腹がくーと音を立てる。
「うむ。そうだな。ご飯にするか」
「やったにゃー!」
 中身が入れ替わっているとはいえ、45歳にもなる自分が無邪気な顔で両手を挙げ、「にゃーにゃー」と言っている姿を見るのはなんとも耐えがたいが仕方が無い。まずは腹ごなしを終えてからだ。
 私はシロに、冷蔵庫を開けるように指示を出すと、そこで気付く。
……そういえば、この場合私は猫のえさを食べるべきなのだろうか、それとも人間用の飯を食べるべきなのだろうか。
 少し悩んだ後、入っていたチーカマを取り出させると、私はそれを食べる事にした。
 シロは、猫である時の記憶がまさるのだろう、人間の食べ物よりもカリカリのほうを希望しているようなので、それを食べさせる事にした。
「うむ。うまい」
 いつも食べているものだから当たり前と言えば当たり前なのだが、やはり味覚は人間の時に近いようだ。
 試しにシロの食べているカリカリを拝借してみたが、人間の時と同じでやはり美味いとは感じられなかった。
「……足りないにゃ」
 ほどよい満腹感にうっとりしていると、唐突にシロがそのような事を言い出した。
 たしかに袋の中のカリカリは残り少なかったようだが、それでもいつもよりはよっぽど食べているはずだ。
「今食べたばかりだろう。我慢しなさい」
 たしなめると、シロはジタバタとせわしなく身体を動かす。
「いーやーにゃ。いーやーにゃ! もっとたーべーるーにゃー!」
 シロが身体をばたつかせるたびに、地面が揺れ、時折机の上のコップなどにかすめては、物が落ちる。
「こら! いい加減にしなさい!」
 そう強く言うと、突然シロはピタリと身体を止める。
 そして振り向くと、ニヤリと笑ってみせる。
 
「何を言っているか分からんにゃぁ……」

 そうして、呆れたように溜息までついてみせる。
 先日の意趣返しか……こいつめ。
 そしてシロは身体をばたつかせるのを再開し、しばらくそうしていてもラチがあかぬと思ったのか、突然起き上がる。
「そうにゃ! シロは今ご主人様にゃ!」
 冷蔵庫へなんとか歩いて行き、その扉を開け放つと冷蔵庫の中を漁り始める。
「おい、何をする! シロ! シロ!!」
 シロはまったく静止を聞かず、片っ端から食い物を食い散らかし始めた。
「もぐもぐ。にゃっ! これすごい美味しいにゃ! これは……おえっ、おいしくないにゃ……これは……」
「シロ! やめなさい! シロ!」
 私もシロの足をペシペシと叩くが、そこは人間と猫の体格差。シロはおかまいなしに食べ続ける。
 そうしてシロが満腹になったのは、冷蔵庫のものがあらかた食い終わった後だった。
「げふぅ……」
 だらしなく壁に背中をもたれかけ、パンパンに膨らんだお腹をさするシロ。
「本当にほとんど食べ尽くしおった……」
 冷蔵庫に残っているのは、開けるのが面倒だったのか、チーカマや、調理せねば味の無いうどん、焼きそばなどの麺類のみ。
 キムチなどは一口食べてみて口に合わなかったのか、床でひっくりかえっている。
 夢とはいえ、これは叱らねばならん。……ならんと思うのだが、どうにも先ほどから眠気が押さえきれない。
「シロ……いいか……それは一日で食べる量で……は……」
 やがて、どうしても我慢が出来ず、私の意識は遠のいていく。
「う~。あれ? どうしたにゃ? ご主人。ごしゅじ~ん」
 シロに身体を揺すられているのが分かるが、それがかえって眠気を誘い、やがて私は意識を手放した。
 

 
 次に目を覚ました時、あたりはシンと静まりかえっていた。
 変な夢だったと苦笑するのもつかの間、巨大な肉の壁が動いている事に気付く。
 嗚呼、夢は続くのだな。と、少しうんざりする。
 シロはどうやら私と一緒に床で寝たらしい。私の小さなからだを抱きかかえるようにして眠りについている。先ほどから見えているこの分厚い肉の壁はシロの……あいや、私の身体の腹か。
 道理で暑苦しいわけだ。普段シロはいつもこんな気持ちだったのかと、今までの私の行いを振り返って思う。
 シロを起こさぬようにそっと抜けだすと、窓の外を見る。
 外にはいつも通りの景色が広がっていて、これが夢の中だなんて信じられないぐらいだ。隣の家の子供が「あー猫ちゃーん」などと言って近づいてくる。……本当に精巧な夢だ。
 そう、夢でなければ困る。現実の世界でどれぐらいの時間が経ったのかは分からんが、私としてはそろそろ目を覚ましたい。
 というのも、この新鮮な驚きや感覚を、早速文章にまとめてみたいと思うからだ。我ながら職業病であると思うが、きっと面白い文章になる。
 私は、心の中で、「起きろ。起きろ。起きろ。起きろ」と念じてみたり、自分自身の身体を叩いてみたりと、思いつく限りの事を試してみるが、なかなか目が覚める気配がない。
 そもそも、気付いた事なのだが、夢の中であるのに痛みがあるというのはどういう事なのだろうか。たしか、夢の中は痛覚が無いのではなかったか。
 そのような事を考えていると、後ろからシロが身じろぎする音が聞こえてくる。
「んう……あれ? ご主人……?」
「おはよう。良く寝ていたようだな」
 寝ぼけ眼を可愛らしくこする45歳男性。ううむ。やはりなんとも言えない気分になるな。
 シロは続いてクアーと大きく口を開けてあくびをする。そしてそのまま私の方へと近寄ってくる。
「ご主人が寝てるのを見てたら、シロも眠くなっちゃった」
「猫の身体というのも不便なものだな。あの強烈な眠気は耐えがたい」
 そう、先ほどの強烈な眠気は恐らく猫の身体である弊害であろう。猫は一日の三分の二ほどを寝て過ごすと聞く。恐らく、あれがその眠気なのだろう。
「シロ。私はそろそろ元に戻りたいと思うのだが、夢から覚める方法を知らないか?」
 これは先ほどシロが起きるまでの間に考えていた事だ。これが私の夢なのだとすれば、その夢に出てくる登場人物。つまりシロが解決の糸口を知っているはずだ。
「う~ん? 夢から覚める方法にゃ? シロわかんないにゃ」
 シロの口から出た言葉は私の期待した物ではなかった。シロが分からないとなると、やはり自然に目が覚めるのを待つしかないのだろうか。
「それにご主人。シロは楽しいのにゃ。人間の身体って面白い。美味しい物いっぱい食べられるし、もうジャンプしなくても高い所を見れるのにゃ!」
 そうか。シロはそもそも、元の状態に戻るのに賛成ではないのか。であれば……。
「シロよ。たしかに人間は便利だ。食べ物も、シロが普段食べていたものより美味しい物が食べられるかもしれない……しかしな。食べ物を食べるためには、仕事をしなければならん。この先も人間でいたいと言うならば、仕事をしてもらわねばならんな」
「仕事にゃ? 仕事ってなんにゃ?」
 そうか、そもそも仕事という概念がわからんか。私はシロに仕事というものについて説明してやる。
 シロはあまりそういった理解が早いほうではないが、最終的には仕事とはパソコンについているあの板を指示された順番に押していく作業である。という所で理解したようだった。
「それならシロも出来そうにゃ! 仕事するにゃ?」
 存外に乗り気なシロに驚きつつ、私はシロに仕事を与えてみる事にした。

「……違う違う、そうじゃない。その横だ。そう。そのボタンを押せ。それが「あ」だ」
 私はシロに、書きかけの小説の続きを書かせる事にした。構想は練ってあるから、後は内容を打ち込んでいくだけだ。
 私は一文字一文字シロに指示を出していく。そのたびにシロは、「んにゃ!?」とか、「ふにゃぁ……」とか、わけの分からない声を出しながら作業を続けていく。「仕事、もう終わりにゃ?」
「終わらない」
 早速飽きて来たのか、シロはそんな事を言い出す。
「あとどれぐらいで終わりにゃ?」
「まだまだ。始めたばかりだ」
「仕事、シロつまんないにゃ」
 シロが泣き言を言うたびに、爪を立てずシロの手をペシペシと叩いてやる。
「つまらなくて当たり前だ。仕事とはそういうものだ。……いや、一概にそうとも言えないか?」
「つーまーんーなーいーにゃ! もうやめるにゃ!」
 ついに我慢の限界を迎えたのか、シロはそういって椅子から立ち上がろうとする。
 チラと時計を見たが、まだ30分も経っていない。
「いいのか? これが終わらないのであれば、シロの夕ご飯はもう食べられぬなぁ……」
 大げさに溜息をつきながら言ってやる。
 シロは浮かしかけた腰を再び下ろす。
「……あとどれぐらいやったらご飯食べられるにゃ?」
「そうだな……」
 ここで心を鬼にして意地悪を言ったほうが、私の目的のためには良いのかもしれないが、シロがあんまりにも悲しそうな目をするので、ついつい情けをかけてやりたくなる。
「あの時計が見えるか? ……違うそうじゃない。その先、あの壁にかかっているのがあるだろう。……そう。それだ。それの長いほうの針が、12の所まできたら、今日のご飯は食べていいだろう」
 今から約45分後だ。実際夕飯1食分と考えれば、それぐらいの労働時間でもまぁかまわぬだろう。
 そう提案すると、シロは少しだけ元気を取り戻し、「わかったにゃ!」と言うと、PCに向き直る。
 さてさて、仕方あるまい。私ももう少し付き合うとするか。
 モニターの横にピョンと飛び乗ると、シロに向かって作業の続きを指示していった。
 
 
 ――二十分後。そこにはすっかりやる気を無くしたシロの姿があった。
「嫌にゃ嫌にゃ! もう疲れたにゃ!」
 最初こそ、少しやる気を取り戻していたシロであったが、予想していたよりも体感時間が長かったためか、すっかり機嫌を損ねてしまっている。
「しかし、人間がご飯を食べるためには仕事をせねばならんのだ」
「もういいにゃ! 人間嫌にゃ! シロ猫でいいにゃ!」
 おお……奇しくも、シロからこの台詞を引き出せた。
 すっかり拗ねてしまっているシロに、私はなるべく優しい声を出して言う。
「そうか、私も猫をするのはいささか疲れてしまっていてな。早く人間に戻りたいと思っていたところだ。シロ、どうやったら戻れるかな」
 私がそう声をかけると、シロはきょとんとした顔をする。
「シロわかんないにゃ」
 ……おかしい。そもそも想定が違っていたのか? 私はてっきり、シロが人間を続けたいがために、夢から覚める方法を知っていて黙っているのだと思っていた。しかし……どうやらそうではないらしい。
 シロが嘘をついている可能性もゼロではないだろうが、今日一日シロを見ていた限り、シロはそんな器用に人をだませるような奴ではない。
 私は大きく溜息を着くと、その場にへたり込む。
「そうか……万策尽きたか……」
 ……そもそもこれは本当に夢なのだろうか。
 私の知っている夢からすれば長すぎる気がするし、何もかもがリアルだ。それに、夢とははたして痛みを伴うものだったか?
 前足を歯で軽く甘噛みしてみる。すると、ピリッとした痛みが肉球に走る。
 やはり……夢ではないのだろうか……だとすれば、本格的に困った事になった。私は、自分のそういった考えを頭を振って否定する。
 いやいや、これが夢でなくてなんだというのだ。まさか、本当に入れ替わりなんてことが起きるとでも? それに冷蔵庫の中身。昨日の夜、あれはたしか空っぽだったはずだ。
「シロ、お前は猫に戻りたいのだよな?」
 ふてくされてベッドに移動していたシロは寝っ転がったまま顔を向け、頷く。そして再び枕に顔を埋めた。
 そう、私もシロも元に戻りたいという意思は一緒だ。なのに目を覚ます事ができない。それは何故か。
 自分の身体に痛みも与えてみた、それでも起きられない。それは何故か……。
「シロなんか腰が痛くなってきたにゃ……」
 それはそうだろう。その身体は元はといえば、45歳の俺の身体なのだから。
「……ん?」
 まてよ、と思う。たしかに私は夢から覚めるために、痛みを与えてみた。
 しかし、それは誰の身体か? 痛みを与えるべきなのは誰の身体なのか?
「……もしかして」
 私は今思いついたひらめきを試そうと、シロの寝るベッドに飛び乗る。
 私が飛び乗った事に気付いたシロは、うつぶせのまま顔だけを私の方に向けてくる。
「シロ、すまん!」
 次の瞬間。バリっと音がするぐらい思いっきり、私はシロの……45歳の私の身体に爪を立てていた。
「うに゛ゃー!」
 シロの悲鳴があがると同時に、突然、視界が真っ白に染まる。
 そして何かに引っ張り上げられるような感覚と共に猛烈な眠気に襲われ、私の意識は遠のいていった。
 

 ――目を覚ますと、そこは見知った天井だった。
 それも当然。そこは私の部屋で、私のベッドの上だからである。
 時計を見れば、時刻は八時十五分。少し寝過ぎた。私は上体を起こすと、眠い目を擦り、洗面所へと向かう。
 途中、シロの奴が私の起床に気付きチリンチリンと後を着いてくるが、妙に機嫌が悪い。
 いつもであれば甘えた声で足下にまとわりついてくるシロが、私の足に近づいてはフーフーと威嚇をしてくる。
 昨晩、何かをしただろうか?
 洗面所で顔を洗おうと、両手で水をすくってかけると、突然、顔にピリッとした痛みが走る。何か、虫にでも刺されたのだろうか。
 私は水気をタオル拭き取ると、眼鏡をかける。昔は眼鏡が無くてもなんでも見る事ができたが、歳と共に視力はどんどんと落ちていき、今では眼鏡がなければ目の前の新聞ですらぼやけて見える始末だ。
 眼鏡をかけおえ、頭もすっかりと覚醒した私は、鏡に映る私を見て驚愕した。
「あれ……なんだこのキズ……」
 顔に3本、大きくミミズ腫れのようなキズが走っていたのだ。……なんとなく、猫の爪の後のような……。
「っ!?」
 そうだ。忘れていた。そういえば昨日の夜、そんな夢を見ていた。……見ていたはずなのだが。このキズは……。
「……まさかな」
 ばかげた自分の思考を振り払う。
 先ほどから、唯一の同居人であり、夢の中で散々私を振り回してくれた奴が、ニャアニャアと騒いでいる。
 私がキッチンに向かうと、シロは冷蔵庫に向かって鳴きながらジャンプを繰り返していた。
 まるで……開け方を知っているかのような……。
 やがてシロは、諦めたのかじっと私の顔を見つめて鳴き声をあげる。
 まるで早く開けろ。エサを寄越せと言っているかのように鳴き続けるシロの姿を見て、私はほんの少しの意地悪を思いつく。
 とはいえ、夢の中での出来事へのただの意趣返しで、我ながら子供っぽいとは思うのだが。

「何を言っているのか、分からんなぁ」

 そう言って、ニヤリと笑ってやるとシロは鳴き声を止めた。
 私は、シロの顔をじっと見つめると、心なしかシロはふてくされたような、不満そうな顔をしているように思えた。
 
 ……まぁ、エサが欲しいだけなのかもしれないが。
 私は小さく笑うと、愛猫のために朝食を用意するのだった。

 © 2016 堂家 紳士

 - 小説