【♀1】声劇練習用ソロ台本『走る』

   

全身の力を振り絞って走る、走る、走る。
流れていく土手の景色は代わり映えもせず、ぼやけているせいで、もうどれぐらい走ったのかもわからない。
私の筋肉が悲鳴をあげているのが分かる。
息はとっくに上がっていて、脇腹はもうずっと痛い。
もう走れない。やめてと叫ぶ体の声を無視して走り続ける。
今朝、2時間かけてしてきたお化粧は、汗か涙かわからないものでぐちゃぐちゃだ。
 初めてのボーナスで買った、上下で五万円もしたお気に入りのワンピースは、汗で濡れて、私の靴跳ね上げる土やほこりで、迷彩柄みたいになっている。
普段はなんでも無いような地面の凹凸が、私の行く手を阻む壁のように思える。
私は何度もつんのめりそうになりながら、乳酸が溜まって重くなる足を引きずり、あるいは上げながら走り続ける。
嗚呼。足が重い。
右左と規則的に進めていた足の進め方が分からなくなる。
今上げている足は右? それとも左? 次に上げる足は?
……そこまで考えたところで、私の体は大きく角度を変え、足が絡まったんだ…… そう気付いた時には、地面がもう目の前に迫っていた。

強い衝撃が私の体を駆ける。
痛い……。

起き上がれないほどの痛みでは無いにもかかわらず、体を起こすことができない。
私は酸素不足でぐるぐるする頭の中で、どうしてこんな事になってしまっているのかを思い返していた。

思い返せば三時間前も、私は懸命に走っていた。
もっとも、理由やテンションは今と全然違ったのだけど。

「もおおおおおお! なんで今日に限ってアラーム鳴らないかなぁ!」
ーー理由は簡単。アラームをセットし忘れただけだ。
普段から、こういったポカをよくやらかす私だったけど、今日だけはどうしても遅刻したくない理由があった。

私には好きな人がいる。
あいや…… いた…… かな?

その人は、会社の二つ上の先輩で、誰よりも努力家で、誰にでも優しくて、要領が悪くて入社当時から失敗ばかりだった私に、自分が教育係なわけでも無いのに、よく親切にしてくれた。
恥ずかしいことに、それまでの22年間男の人に優しくなんてされたことのない私が、彼に好意をもつのに、さほど時間はかからなかった。
彼と接するうちに、彼のいろんなところを知った。
私と同じアーティストが好きなこと。
休日には町へ出て食べ歩きをするのが好きなこと。
子供向けの映画で泣いてしまうぐらい、涙もろいこと。
時が経てば経つほど、私の彼への気持ちは大きくなっていった。

彼と出会って二年ほど過ぎて、とうとう気持ちが抑えられなくなった私は、彼をデートに誘った。
あの時の彼の驚いた顔は、申し訳ないけど今思い出しても笑える。
私の気持ちにまったく気づいていない鈍感な人だという事も、あの時知った。
彼は混乱し、顔を七変化させたあと、やがて、うん。とだけ頷いてくれた。

そして、デート当日。
っていうか三時間前!
私は、見事にデートに遅刻した。
焦って走りながらも、私は、どう言い訳しようか、彼は遅刻した私になんて言葉をかけるだろう。なんて浮かれていた。
だって仕方ない。
二年間ずっと好きだったんだ。やっと気持ちが伝えられるんだ。
そんなウキウキした気持ちが続いたのは、待ち合わせ場所までだった。
そこにーー彼はいた。女の子に抱きつかれながら。

なんで? なんでそんな事をするの? 私に見せつけたかっただけ? だから今日のデートをOKしたの? ひどい……
しばらく呆然と二人を見ていた私に、彼が気付いた。
彼は、しまった! という顔をして口を開く。
もういい。何も聞きたく無い。
私は踵を返し、駆け出した。
どこに向かってかは分からない。けど、彼の、彼と一緒にいた女の子の声が私に追いつかないように、無我夢中で走った。

そして今、走り疲れて力尽きた私はここに寝そべっている。
人が集まってきているのが分かる。
しきりに、大丈夫ですかー! と声をかけてくれている人もいるみたい。
そりゃそうだ。全身埃や泥まみれの女が、突然倒れこんだまま起き上がらないんだから、何事かと思っても仕方ない。
嗚呼、このまま消えてしまえればいいのに……
もう嫌だ、無駄だったこの二年間も、彼が優しくしてくれた思い出も、何もかもを忘れさせて欲しい。
神様、お願いです。私の記憶を消してください。

私がそう願うと同時に、私の意識はもやがかかったかのように消えていった。
まわりの人たちから、救急車ー! なんて声が聞こえる。
目が覚めた時、全部なかったことに、夢になってくれたらいいなぁ。なんて事を思いながら、私は意識を手放した。

目が覚めると、雨が降っていた。
あいや、正確には違ったんだけど、その時の私はそう勘違いをした。
目を少しづつ開けた私は、それは雨じゃないことを知る。
病院のベッドに寝かされた私の目の前では、私の愛しい人が涙を流していた。
嗚呼、雨の正体はこれかと、そこで気づく。
さっきまで、あんなに千切れそうだった私の心は、自分でも不思議なくらいに落ち着いていて、「おはようございます」なんて緊張感のない事を言ってしまった。
すると彼は、私の大好きだった彼の笑顔で「おはよう」と言った後、心配したと、また子供のように泣いた。

この話は、結局のところまったくの私の勘違いで、彼に抱きついていた彼女は、彼の妹であると、彼に説明された。
妙に浮かれて出て行く兄が気になって、着いてきてしまったそうだ。
これからデートだからと妹さんを帰そうとしたら、ムキになった妹さんに抱きつかれ、そこに私が遭遇した……と。
 そういう事だったらしい。

 そう、彼が言っているんだから間違いない。
 私は彼を信じよう。そう決めたのだ。
 だって、私の大好きな人なのだから。

――だから、私は彼に言いかけた言葉を、胸の奥にしまう事にした。
 以前、会社で書類整理をしていて、たまたま見てしまった彼の履歴書の家族欄に、妹さんがいなかった事なんて、きっと些細な事なのだ。
 そう、私は彼を信じると決めた。愚かで愛しい、大好きな彼の事を。

 © 2016 堂家 紳士

 - 声劇・ボイスドラマ